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〜第十四弾「世界の誰より、私は遅い。〜雫石さんの恋〜」より〜

滴に映った息子の顔が驚いている。
透明な傘のように広がった水は、私の後頭部から出ているように見える。
正確に言えば、タバコ屋のジョルジュのぶちまけた水が、
私の後頭部に当たって四散しているのだ。
息子の目には、私が東洋の神様「ホトケサマ」のごとく、
後光が差しているように見えている事だろう。
水が私の体をぐいぐいと押している。
このまま行くと私は地面に前のめりに倒れる事になるだろう。

ほんの一瞬の出来事である。
通りの向こうを走っていく息子の姿を見つけ、追いかけ始めた途端だった。
どうやら息子はジョルジュに追いかけられていたらしい。
おおかた悪戯だ。
また店のスナック菓子を袋の上から粉々にしたり、
雑誌のページを鼻くそでくっ付けたりしたのだろう。
ジョルジュはバケツの水をぶっかけようとし、その射線上に私が入ってしまったようだ。
やれやれ。

二軒先のブーリのクリーニング屋が見える。
窓ガラスに貼ってあるチラシがめくれかけている。
私が総合演出という形で関わっているチャリカルキという劇団の公演チラシだ。
ブーリはあの劇団の大ファンで、公演の度に店を休んでわざわざあの国に観に行く。
息子の頭上1メートルを鳥が羽ばたいて居る。
突然の水に驚いて脱糞しかけている。息子の頭直撃コースである。
息子よ、これが因果応報という奴だ。ホトケサマには見えている。

しかし、なぜこんなに一瞬が長いのだろう。まだ私は地面に倒れない。
チャリカルキの稽古の進み具合を考えてみる。概ね順調だ。
後テンポが必要だろうか。地面はまだ20センチほど先にある。
誰かが噛み捨てたガムがへばりついている。
服についたらいやだな、と思うと同時に、これも息子がやったのだとしたら
少しキツく叱ってやらなければならないな、と考える。
まだ地面は10センチ先だ。アリと目が合った。
おかしい。なぜこんなに時間がかかるのだろう。倒れるのはほんの数秒先だ。
しかしその間に私はかくも様々な事を考察できる。
もしや周りの時間が遅いのではなく、私の思考が速いのだろうか。
人間は光よりも速く考える事が出来るのではないだろうか。
大発見だ!人は思考の力で時間をも超えられる!私の頭に花火があがる…。

目が覚めると、病院のベッドの上だった。
妻に叱られしおれきった息子と、おろおろしているジョルジュが居た。
丸一日寝てしまったそうで、大切な休暇は終わってしまっていた。
かくも長い一瞬と、かくも短い一日を私は味わった。

 

病院にて   

 チャーリー軽木